かつて一世を風靡した新左翼運動は、その創生から半世紀をへた今日、日本では全く衰退してしまった。最早、「理論的血統」の正統性を争う論争には意味がないであろう。運動を再生するためには、「新左翼運動とは何だったのか」という総括が求められている。
目次
(1)スターリン主義批判と「唯一前衛党」論
新左翼運動の創出の大きな要因にはスターリン主義批判があった。トロツキー等の理論を基礎に、スターリン主義を社会主義への過渡期における「世界革命の放棄」と「一国社会主義論」として捉えた。または、伝統的共産党の体制内化に対して、暴力革命論や武装闘争の着手を対置した。
しかし、スターリン主義が、革命党の絶対化による疎外形態であることへの組織論的批判が不十分であり、結局、その「唯一前衛党主義」を引き継ぐものとなってしまった。そこから、党派対立が激化した。また、大衆運動とのかかわりも、「党派の路線の貫徹」「党を主語にした大衆運動」となってしまい、スターリン主義の「伝道ベルト論」と大差のないものになっていった。
党内民主主義と党員主権、革命党の複数主義といったテーマが、強く復権されなければならない。また、党と大衆の機械的区別ではなく、その本来の相互関係の模索も必要となっている。
(2)ロシア革命や中国革命をモデルにした革命理論
新左翼運動は、第二次世界大戦後の戦後革命期が一度退潮した後の1960年前後に創生された。ロシア革命や中国革命で完成された理論モデルを基礎に、しかし、階級的基盤は脆弱なままに、「先鋭なたたかいで、早急に革命情勢を実現する」という理論でたたかわれた。革命の理論モデルとしては、「武装したソビエトと一斉蜂起」「持久的な革命戦争」等である。そして、「革命の現実性」という認識がその基礎となっていた。
当時の時代背景として、中国革命はほんの少し前の出来事であったし、ロシア革命すらそんなに遠い記憶ではなかった。さらに、キューバ革命があり、ベトナム解放闘争が始まっていた。
しかし、歴史は新左翼各派の理論モデルとは全く違った経過を辿って21世紀に行き着くこととなった。「資本主義の最後の段階」である帝国主義は、その青年期である自由主義段階に匹敵する期間を既に歴史に占めている。
問題は、新左翼諸党派が歴史環境の変化にその「戦略」の見通しを対応させて発展させることができなかったことである。したがって、今日、現実に対して、全くリアリティーのない「革命論」を持て余している、という現状となっている。
もともと、マルクス、レーニン、毛沢東の革命論は、パリコミューンや、1905年と17年のソビエト、また、国民党軍の一部の革命の側への移行と敵の包囲という、「現実に提出された問題」への「ひとつの回答」であった。ところが、その革命の総括を、「党派が『革命の型』を提起して、それに基づいて階級闘争を発展させる」としたところに誤りがあった。
「戦術」が状況で変化するように、「戦略」も歴史環境によって変化しなければならない。現実の階級闘争を革命的に、すなわち反資本主義的にたたかう中で、21世紀の革命の戦略的方向性を模索していかなけれなならない。現在現実に起きていることを真剣に対象化していくことが必要であろう。
(3)日本の新左翼と労働運動
日本の新左翼党派の労働運動戦略は、総評労働運動に結集している労働者こそが革命的階級であるという認識の下に立てられた。総評労働運動を指導している社共に変わって革命派がヘゲモニーを取ることで、事態は革命的に転換する、というものであった。
しかし、これも歴史は予想と違う様相を示した。総評は連合へと右翼的に統一され、強搾取されている労働者の多くが未組織の不安定雇用労働者として放り出されることになった。総評を前提とした新左翼党派の労働運動論では、全く事態が打開できない情勢となった。
戦闘的な既存労組の防衛と共に、総評の「企業内組合と本工主義」を克服した産業別労組や、地域合同労組による不安定雇用労働者の団結を作り上げていくこと、社会運動的労働運動等が課題と言える。
(4)暴力革命論の総括
新左翼運動が想定したロシア革命や中国革命型の暴力革命は20世紀後半には成就しなかった。各派は、「都市ゲリラ戦争」の継続を試みたが成功しなかった。
スターリン主義の弾圧や「内ゲバ」の凄惨さは、多くの民衆に暴力への拒否感を生み出した。
帝国主義の支配が暴力装置による以上、革命において暴力の問題は避けて通れないであろう。「自衛」と「抵抗」が軍事行動を正当化する唯一的なテーマである。
今後の革命の構想を模索していく場合、暴力革命論との関係では、軍隊の動向が大きな問題になるであろう。実はロシアや中国の革命でも、軍の解体や反乱が革命の形態を規定したのである。
現在、帝国主義本国における軍の「市民化」は、軍隊解体における大衆運動の役割の比重を高めている。また、ベネズエラ等南米で進行している事態は、選挙と大衆行動、軍の階級移行が新しい形で連動している。
大衆運動の発展だけが、新しい革命論の問題を現実に提出するであろう。
(5)レーニン主義の再検討ー帝国主義論と前衛党
新左翼理論のベースになったレーニン主義について、帝国主義論と前衛党論について、若干検討したい。
①帝国主義の変化
かつてレーニンは、「資本主義はその基本的な属性を継続しつつ、一定の段階で、若干の基本的属性が反対物に転化しはじめた」として、帝国主義論を書いた。今や、その帝国主義は、その基本的属性を継続しつつ、国家間戦争を繰り返していたレーニンの時代とは大きく変容するに到った。新しいグローバリズムは、「帝国」と称するよりは、「後期帝国主義」と言った方がよいであろう。アメリカ以外の帝国主義は単独で世界を分割支配する力を失い、帝国主義間の対立は、アメ帝への他帝国主義国の「独自利害に基づく抵抗」というレベルを超えることができない。アメ帝に対抗できる正規軍の不在という中で、「戦争」は地域紛争・「帝国の内戦」という性格を色濃くもつようになった。さらに、そのアメ帝自身が力の限界をさらけ出し、帝国主義の世界支配の破綻が隠しようもなく現われている。
民衆の様相もまた、変化した。フォーディズムからポストフォーディズムへ、同質の工業的賃金労働者(プロレタリアート)が時代をリードする典型的存在とは最早言えない。様々な形態での労働があらゆる回路で金融資本に従属し、搾取されている。急速な発展の影に、出口のない停滞が存在している。非物質的生産と多様性がその特徴をなし、全体の傾向的性格を規定している。非物質的生産とは、情報通信業や医療福祉業界等、社会的関係性・共同性を(賃労働という疎外労働の下で)生産するものと言える。直線的な生産構造からネットワーク状の構造への転換が見られる。
新左翼運動の理論的前提であった「レーニン主義」時代とは、社会的生産の様相、時代背景が変化しているのである。
②前衛党論
レーニンは、1902年『なにをなすべきか』で、「民主主義的原則の適用は不可能である」「100人の愚者より10人の賢者を」という強烈な逆説とともに、強度の中央集権主義的な非公然的前衛党を提起した。
これは、非合法化の弾圧と、軍事的色彩の強い闘争に適応する組織論であった。そういうものとして、闘争組織に不可欠の性格を提起したものと言える。
他方、このような中央集権制の強い組織は、スターリン主義に典型的なように、権力を奪取し、あるいは、組織が長期に存在していく時に、民主主義の抑圧と、組織の民衆からの疎外を生んでいくようになった。
我々は、このような反省から組織における民主主義の問題や、自治、複数主義といった原則を強く確認していかなければならない。
他方、①で確認したように、今日の被搾取民衆の状況も、多様性と複雑さ、非物質的生産の拡大というように、20世紀前半とは明らかに様相を異にしている。
社会を変革するためには、あらゆる領域とあらゆる形態で、民衆が声を上げ、決起し、直接行動することが必要であろう。ロシア革命や中国革命では、民衆は識字率の低さに示されるように、圧倒的に情報とコミュニケーションから疎外されていた。しかし、現在は、情報が溢れ、インターネット等を利用して、民衆個々人が大いにコミュニケーションすることができる。そこから民衆の闘争のあり方も大きく変化しているのである。
レーニン主義の教条化を廃し、前衛党もその形態を新しい闘争に適応するものに変化させなければならない。集中的な機能を持つ闘争組織とともに、多中心的なネットワーク運動の重要性が増していると考える。
(補足)検証「内ゲバ」
スターリン主義から継承した「唯一前衛党論」は党を絶対化し、内部粛清と内ゲバを必然化した。革マル派が他党派の解体を暴力的に追求する党派に特化したことは、それに如何に対応するかを巡って、他の党派にも深刻な問題を課し、軍事主義的偏向が加速された。(この項、未完)
07年11月