筆者の一人である松尾匡先生からこの本を送って頂き、ほとんど一気に読んでしまいました。本書は序章・終章を含めて全13章を13人の経済学者・研究者が、資本論全3巻のそれぞれの内容を簡潔・的確に解説、同時に当該項目について現代を分析するという内容になっています。昨今の資本論関係の書籍では、資本論の論理の一部を取り挙げたものや、第1巻を中心とした解説本が多い中で、全3巻をトータルに、その経済学理論の後を正確に追った点で秀逸な書籍であると思います。
また、資本論の理論の発展として、ユニークな提起もなされています。本書第2章では、情報の非物質性(物質への非固着性)と非所有性を取り上げ、労働の物質代謝労働から情報労働への「労働の有機的構成の高度化」を提起しています。本書第11章では、現実の農業(世界の7~80%が小規模家族経営)の観点から差額地代論と資本論の論理を再評価しています。
本書にご関心のある方は、是非、読んでみて下さい。以下、率直に私の読後感を記してみます。
1. 社会変革とそれを実現する階級闘争こそ重要
本書は、資本主義が人間の発達・社会の発展の潜在力をもたらしながら、個々の労働者と労働者階級の貧困と停滞を作り出しているという矛盾を資本論の視点として提起しています。しかし、その潜在的な発展の力を、現実の人間と人類の発展に転嫁するのは階級闘争を通した社会変革に他なりません。そのことを本書はもっと端的に強調すべきであったと思います。その点は、斎藤幸平氏や白井聡氏の本に比べてインパクトが弱く、もったいないと思いました。
2. 世界体制についての視点の欠落
宇野弘蔵は、資本論を論理的に構成された純粋な資本主義の経済法則であるとし、現実の歴史過程としては、資本主義は商業資本主義―産業資本主義―帝国主義という段階をもって発展したと整理しました。産業資本主義の自由主義段階において純粋な資本主義の経済法則が典型的に展開したとしたのです。本書『時代はさらに資本論』は「資本論を過去の文献としてではなく、現代に生きる分析の書として読む」とするですから、やはり、帝国主義の時代であった20世紀の末期に登場した新自由主義、また、21世紀冒頭での世界経済のパワーシフトといった背景事情は、最低どこかで押さえておくべきであったと思われます。
3. 利潤率の低下と資本の有機的構成の高度化
本書第9章第10章は、現実に利潤率の低下が続いていること、そこから起こる現象が資本論の指摘そのままであること、現代の金融化と言われる金融資本の過剰も金融資本の展開に完結するものではなく、資本論の「架空資本」の論理に基づき、実体経済の利潤率の低下からもたらされている現象であること(平均利潤率が下がれば、同額の利子が表現する架空資本の価額は大きくなる)が鋭く指摘されています。
しかし、この1975年以来の、あるいはバブル崩壊以来の利潤率の停滞は、資本論第3巻第13章にある資本の有機的構成の高度化からくる利潤率の傾向的低下であるかと言えば、そうではありません。資本論第3巻の利潤率の傾向的低下の法則については、「置塩の定理」でそれが必ずしも必然でないことが明らかにされ、また、ピケティの「21世紀の資本」でも実証的には否定されているところです。本書第9章でも日本の需要の半数以上は個人消費であることが明らかにされており、資本の循環を考えると、その有機的構成が高くないことは明らかです。また、本書第2章が指摘する「情報化による資本の有機的構成の高度化に依存しない生産力の上昇」も現実的な事象であると思います。
利潤率の低下が資本論第3巻第13章にある資本の有機的構成の高度化からくる利潤率の傾向的低下でないとすると何が原因でしょうか。私は、1975年以来の、とりわけリーマンショック以降の世界的な慢性的な生産過剰状態が原因であると思います。食品は3分の1が廃棄され、アパレルや書籍の廃棄、住宅や粗鋼の過剰も大きな問題になっています。粗鋼の生産設備が廃棄され、期限内に売れなった自動車やパソコンはモデルチェンジの度に安売りされています。
仮に30%の商品が売れ残って廃棄される、あるいは同じことですが商品が平均で30%の値引きで販売されていると仮定すると、商品が販売できた時の利潤率が43%以上でないと実際の利潤は生まれないのです(販売成就率と利潤率の積が、廃棄率を超えないと実際の利潤を生まない)。
4. 過剰生産=供給が需要を超える原因としての労働人口問題
本書の中では松尾先生が執筆した第8章が数式も多く最も難解でした。そこで指摘されているように、資本論第2巻第21章の再生産表式は商品が全て売れることを前提にしたモデルであること、また、資本の部門間移動や利潤率均等化の法則に基づく資本の移動が捨象されていることは留意しなければならない点です。それに踏まえた上で、やはりこの再生産表式は資本の再生産の条件、逆に言えばその資本の流れの中断としての過剰生産を理解する上で重要な概念整理であると思います。そしてここでは、資本自身が直接生産できない労働人口の問題がボトルネックになることは、歴史的にも幾人かの論者が様々な観点から指摘してきたところです。
資本の有機的組成が一定ならば、一般に成長は労働者の雇用の増大に比例します。ケインズの弟子のロイ・ハロッドとエブセイ・ドーマーは(1930~40代の大恐慌の最中)は、国民所得に対する資本(資産)の比率は所与の技術的な関係に固定されているので経済成長率は人口成長率に等しくなければならない(ナイフエッジの均衡)とし、他方、ソロー(1950代の大戦後の景気回復の中)は、国民所得に対する資本(資産)の比率は長期的には経済の構造成長率にあわせて調整されるとしました。宇野弘蔵は、資本の有機的組成は好況期にはその現物形態に規定されて不変であるとし、恐慌によって古い生産手段が廃棄されて組換えが進み、新たな生産水準が獲得されるとしました。それでも、いずれにせよ、労働人口の増大が資本の拡大再生産に不可欠であることは言えるでしょう。
置塩の「均衡蓄積軌道」では、一方的に失業者を蓄積させる軌道も、一方的に人手不足進行する軌道も再生産が持続できないとされるとのこと(本書第8章)ですが、産業資本主義段階では、労働人口を牽引する好況期が、周期的に発生した恐慌を挟んで、労働人口を反撥する不況期に転換するという景気循環をもって資本の蓄積が進んだと思われます(資本論第1巻第23章第3節)。
労働人口については、本書第3章第4章で論じられています。資本論では相対的過剰人口の3つの類型として、流動的過剰人口、潜在的過剰人口、停滞的過剰人口が挙げられています。本書第4章では、家父長的一夫一婦制の家族形態が資本主義の労働人口の再生産の根幹になったことが指摘されています。それでも人口の生殖による増加は資本の再生産の成長軌道にはとても間に合わない水準です。現実には、植民地・従属国への資本の輸出と移民の流入、そこ植民地・従属国における圧倒的な停滞的過剰人口の存在が20世紀の資本主義=帝国主義の成長を支えてきたといえるでしょう。
現在、世界のGDPの25%を占める米国は移民によって形成された国家であり、世界のGDPの15%を占める中国は20世紀末になって周辺国から中心に引き込まれた国家です。これだけみても、単純に産業革命以来の資本の同心円的拡大再生産で現在の資本主義の巨大な生産力が形成されたわけではないことは明らかだと思います。
世界のパワーシフトが始まった21世紀は長期停滞が続く一方で、資本の拡大再生産が自然的限界と衝突するに至っています。エコ社会主義と脱成長へ人類史を転換できるのか、それが新しい課題であると思います。
2021年6月12日
松尾匡先生のコメント
ご丁寧な書評いただきまして、ありがとうございます。計算はお示しのとおりと思いますが、利潤率を固定資本は捨象した費用に対する利潤の比率で示していることは説明したほうがいいかもしれません。(中略)自分の書いているところ以外は、何も口出ししていません。生産超過の問題ならばケインズ政策で解決されますので、実現問題を捨象したモデルでなおかつ起こる問題を指摘す