15.松尾匡『時代はさらに資本論再生産表式』レビュー

大阪労働学校アソシエの講師である松尾匡先生が共著で発刊する本で『時代はさらに資本論再生産表式―再生産表式で今何が言えるのか』という表題の小論を執筆している。読ませて頂いたので、そのレビューを記したい。

一、松尾先生の論文をなるべく数式を省いて私なりにまとめてみると以下のようになる。

1、再生産表式は『資本論』第二巻第20〜21章に収録されている。

資本論「単純再生産」表式の解説。

Ⅰ(生産手段生産部門) 4000c + 1000v + 1000m = 6000

Ⅱ(消費財生産部門) 2000c + 500v + 500m = 3000

 「4000c」とあるのは、数式のように「4000かけるc」を表しているのではなく、変数「c」の中身が「4000」という数値であることを表している。ここでcは「不変資本」、すなわち生産に使われた生産手段の額を表す。本来「不変資本」と言えば、機械や工場などの固定資本は全額含むのであるが、表式のこの部分に計上されるのは一期間(例えば年間)に消耗・投入した分だけ。vは「可変資本」すなわち賃金費用を表す。mは「剰余価値」すなわち利潤額を表す。この数値例では、vとmの比が両部門ともに1対1で、cとvの比が両部門ともに4対1であることが仮定されている。単純再生産の場合、両部門のmはすべて資本家の消費のために消費財の購入に向けられる。

 すると、上記の表式の左辺各項のうち、Ⅰ4000cは、生産手段生産部門において生産されたものが、生産手段部門自身において投入された生産手段の補填にあてられる部分を表す。再生産が持続するならば、この分が次期また投入されることになる。したがってこの部分は、生産手段部門内部での交換を表す。

 他方、上記の表式の左辺各項のうちⅡ500v+Ⅱ500mは、消費財部門内部での交換を表す。なぜならⅡ500vは消費財部門で雇用された労働者への賃金支払いにあたるが、それは全額消費財の購入に向かい、Ⅱ500mは消費財部門の資本家の利潤であるが、それもまた全額消費財の購入に向かい、かくして消費財部門自身で生産されたものが購入されて消費されることになるからである。

 それに対して、6000の生産手段のうちⅠ1000v+Ⅰ1000mの部分は、生産物の素材としては生産手段であるが、Ⅰ1000vは生産手段部門で雇用された労働者に賃金として支払われ全額消費財の購入に向かい、Ⅰ1000mは生産手段部門の資本家の利潤となってやはり全額消費財の購入に向かう。すなわちこの合計2000の額は、生産手段部門から消費財部門への生産手段の供給を表すと同時に、生産手段部門から消費財部門への消費財の需要を表している。

 また、3000の消費財のうちⅡ2000cの部分は、生産物の素材としては消費財であるが、消費財部門において投入された生産手段の補填にあてられる部分を表す。再生産が持続するならば、この分の生産手段が次期また投入されることになる。すなわちこの2000の額は、消費財部門から生産手段部門への消費財の供給を表すと同時に、消費財部門から生産手段部門への生産手段の需要を表している。

したがって、Ⅰ1000v+Ⅰ1000mの生産手段とⅡ2000cの消費財が交換されることによって再生産が成り立つことになる。すなわち、Ⅰv+Ⅰm=Ⅱc(生産手段生産部門内で使用される生産手段の価値を超える部分が消費手段製造部門の生産手段と等価)であることが成立することが単純再生産均衡成立の条件である。

しかし、資本主義的生産にとっては、単純再生産は例外的事態であり、普通は利潤から資本蓄積がされることで、再生産規模は拡大する。よって『資本論』では続いて「拡大再生産」が検討されている。拡大再生産の場合でも再生産表式で需給の均衡が成立するためには、m(生み出された剰余価値)=Δc(生産手段の価値の増大)+Δv(労働力価値の増大)+mk(+資本家の消費価値)であることが必要である。

①マルクスの再生産表式の定式はセイ法則(需給は必ずバランスする)を前提している。これは拡大再生産の定式についても容易に確かめられる。なぜかというと、資本家が利潤を過不足なくきっちり支出する想定になっているから。資本家が収入をすべて支出しないと「売り」が「買い」につながらず貨幣保有の増加にまわる。マルクスが『資本論』で正しくセイ法則が破れる本質として指摘している

②資本の部門間移動は資本主義的生産にとって本質的。資本が部門間移動可能なら、利潤率の低い部門から高い部門への資本の移動が起こるので、長期平均的次元では利潤率が均等化しているはず。『資本論』の前掲の単純再生産表式の数値例ならばこの問題はクリアできている。というのは、この数値例では、両部門の資本構成、すなわちcとvの比率が同じ。拡大再生産表式のところで掲げられている数値例はそうなっていない。投下労働価値どおりの価格は想定できないので、価値と価格が乖離するものとして、本稿では別途計算する。

③『資本論』では古典派経済学に一般的な想定であるが、賃金前払いを前提している。筆者は賃金後払いかどちらの想定をとるかはあまり重要ではなく、計算の便宜で解きやすいほうで選んでいいと思っている。

再生産の拡大の程度が大きくなると、生産手段部門が拡大しなければならないという意味では、「優先的発展」は現実を反映している議論なのであるが、これは再生産表式の形式的構造だけからは帰結させることはできない。

2、拡大再生産軌道の長期持続条件

①総不変資本の成長率が高くなればなるほど、総不変資本のうち生産手段部門に投入される比率が高くなる。生産手段投入と生産量との技術的関係である投入係数が与えられているならば、これは、生産量の成長率が高くなればなるほど、生産手段の生産量の消費財の生産量に対する比率が高くなることを意味している。

 

②もし労働生産性が不変ならば、生産が両部門ともにsrの率(利潤率に貯蓄率をかけたもの、すなわち新たに生み出された価値のうち拡大再生産に投入される価値の率)で成長すると雇用もまた両部門ともにsrの率で成長する。労働生産性が上昇する場合は、雇用の成長はもっと少なくてすむ。定義的に、生産量は労働生産性に雇用量をかけたものだから、生産量の前期からの増加倍率は、労働生産性と雇用量それぞれの前期からの増加倍率をかけたものに等しくなる。

 

③拡大再生産表式が対象とするのは、短期的な動揺を捨象した長期平均的な軌道。現実の経済は、あるときは不況が進んで失業者を累積させ、別のときには加熱が進んで人手不足になる。しかし、一方的に失業者を累積させるばかりの軌道も、一方的に人手不足が進行するばかりの軌道も、再生産が持続できない。したがって、現実の経済がその周囲を景気循環するところの長期平均的な拡大再生産軌道自体は、失業率を一定に維持するものでなければならない。こうした軌道を、置塩信雄は「均衡蓄積軌道」と呼んだ。このような軌道は、雇用の成長率が労働人口の成長率と等しいものである。すなわち、上記のnを労働人口の成長率としたときの、sr=n+χ(カイ、労働生産性と雇用量の増加率)となる軌道が、長期的に持続可能な拡大再生産軌道である。

 

④M(総剰余労働価値)=ΔC(生産手段の増加価値)+Mk(資本家の消費)

置塩信雄の有名な「マルクスの基本定理」が言っていることの本質である。剰余生産物である蓄積生産手段と資本家の個人消費財は、労働者の総剰余労働によって生産されている。総労働がそれぞれ、ⅰ)労働者向け消費財の生産、ⅱ)蓄積生産手段の生産、ⅲ)資本家の個人消費財に配分される。これらはどれかが増えるとどれかが減る関係にあることがわかる。

3、日本経済が直面する三つの道

重要な前提は、労働人口成長率nが低下して、もはやプラスの値をとらない時代になったということ。そうすると、sr=n+χから、再生産が持続するためにはどうならなければならないか、n以外の三つの変数に対応して、三つの道がある

①利潤率 rの低下

 利潤率rが低下すること。これは労働者にとって望ましい道。現代的には、V部分の中には、賃金から購入する消費財ばかりではなく、労働者大衆が受け取る、福祉、医療、教育、子育て支援などの公的な社会サービスも含めるべき。しかし①の道の実現には、資本家階級の抵抗は必至であり、労働者大衆の労働運動や政治運動での強固な闘いが必要。

②利潤率rを低下させないとすると、労働生産性の上昇率χを上昇させるという道がある。拡大再生産表式がセイ法則を前提する長期均衡モデルであったことを忘れてはならない。それは総需要が不足して不況がもたらさせている局面にあてはまるものではない。総需要が弱いところに労働生産性を上げる競争強化策をとって、非効率とされた企業の淘汰や雇用の流動化を進めても、失業が増えるばかりでますます不況が悪化してしまう。

③労働人口成長率 nがプラスでなくなった時代、労働生産性χの上昇が望めない中で、成長率rを低下させないために残された方法は、残る一つの変数、貯蓄率sを減らすこと。資本家の個人消費にまわる割合を増やすこと。剰余生産物のうち蓄積のための財ではないものを増やすということであり、現代的には、資本家の個人消費というよりは、もっと集合的なものをイメージしたほうがよい。すなわち、オリンピック施設、カジノ、万博、リニアといったもののための生産・サービスの割合が増えることである。あるいは軍備の拡大といったこと。

二、松尾先生の論文について以下、論評してみる。

1-①再生産表式と過剰生産について

1867年、資本論の第一巻が出版された。第二巻の再生産表式は、重農派・ケネーの経済表を基に、一巻完成から11年たった1878年頃に書かれている。それ自身が恐慌の必然性を示しているわけではないが、いまだ恐慌論未完成という中でマルクスの研究がそれと無関係にあったとは考えられない。他方、恐慌論の未完成こそ、マルクスが生きている間に資本論二巻、三巻を出版しなかった最大の理由ではないかと思う。(第一巻出版時に第三巻までの草稿はほぼ書かれている)従って、再生産表式はそれ自身何かを証明しているものではなく、研究のツール、思考の歩みの足跡と考えるべきものと思う。以下に行う考察でも、「二つケンブリッジの論争」のように、再生産表式を使わないで同じ位相のことを論じることができる。逆に、再生産表式における様々な仮定を現実の必然と取り違えて式を捏ねくり回しても無意味であろう。

 セイ法則(1803年)とは、商品交換は貨幣を媒介にした物々交換であるから、最終的には需要と供給は一致するというものである。200年も以前の、資本主義の生成期(旧自由主義段階)の議論であるので、後世でいわれるような複雑な前提はなかったものだと思われる。マルクス再生産表式も「等価交換」というセイの法則をまずは前提にしたものである。

 ところで、ケインズ一般理論(1937年―恐慌後の長期不況の中)は、「流動性の罠」として「貨幣愛」が需要が供給に追いつかない原因であるとした。「売るが買わない」者がいるのだから需給のバランスが崩れるのは当然のように思われるが、資本主義が堅調に推移している好況期にはこれは一般的にはあり得ない。資本論では「退蔵貨幣」や「遊休資本の貸付資本への転化」などでこの問題を扱っている。時間軸でいえば、あるものは貨幣を流通から引き上げるが、あるものは退蔵していた貨幣を流通に投入する。平均利潤率が10%だとすると、貨幣を退蔵しても確かにその価値が棄損されるわけではないが、投資したライバルの資本家に比して1年で10%の遅れを取ることになる。その結果、例えばライバルの投資家たちは5年間無利子で貨幣退蔵した者より1.5倍を超える所有をなし、貨幣退蔵者は競争に劣敗することになる。他方、遊休資本を銀行資本に預けるなどする場合は、当人が支出しなくても銀行資本による貸し付け等となって需要に繋がっていくことになるであろう。

 では、需要が供給に追いつかず、過剰生産が生まれる原因は何であろうか。

 拡大再生産表式について言えば、松尾先生は紹介してないが、2段の式になっている。

1年目

Ⅰ4000c+1000v+1000m=6000

Ⅱ1500c+750v+750m=3000

2年目

Ⅰ4400c+1100v+1100m=6600

Ⅱ1600c+800v+800m=3200

 レーニンの有機的構成が高度化する式だと

1年目

Ⅰ4000c+1000v+1000m=6000

Ⅱ1500c+750v+750m=3000

2年目

Ⅰ4450c+1050v+1050m=6550

Ⅱ1550c+760v+760m=3070

 マルクス・レーニンの再生産表式では、1年目に生産された総価値は内部で等価交換されるのだが、そのうち資本家の消費が2年目の再生産から離脱し、残りが2年目のcとv部分に置き換わる。ところで、1年目に生産された(資本家の消費に当てられた以外の)生産物が2年目に交換すべきcなりvなりの需要を発見できなければ、過剰生産になる。そして、それはこの表式内部では生産されない労働者の数がボトルネックになって引き起こされると考えられる。産業資本主義段階で典型的な景気循環は恐慌で相対的過剰人口を生み出し、それを好況期で吸引していくのだが、実際にはそれでは足りずに国外に市場を切り開き、資本主義圏(植民地)を外延的に拡大していった。

 マルクス主義における論争では、労働者数の限界は資本の有機的構成の高度化(vに対してcの比率が高くなること)によって解決されるという主張(ツガンバラノフスキーなど)もあったが、実際にはcとvの比率は所与の技術的な関係や固定資本の実体に規定されてスムースに変動できず、恐慌や戦争といった「破壊」や植民侵略などの外延的な拡大を媒介にして新たな再生産の循環軌道に戻ったのであった。

2-②生産量の増加倍率と、労働生産性・雇用量の増加倍率について

この議論と同じ位相の議論として、ピケティの『21世紀の資本』p239にも紹介された「二つのケンブリッジ論争」がある。ケインズの弟子のロイ・ハロッドとエブセイ・ドーマーは(1930~40s・大恐慌の最中)は、国民所得に対する資本(資産)の比率は所与の技術的な関係に固定されているので経済成長率は人口成長率に等しくなければならないという不安定の中にあるとした(ナイフエッジの均衡)。他方、ソロー(1950s 大戦後の景気回復の中)、国民所得に対する資本(資産)の比率は長期的には経済の構造成長率にあわせて調整されるとした。

だが、実際には経済成長率に比例して人口が増加することなどあり得ない。前者は後者とは桁違いなのだ。

 現在の人口増加率は約1%だが、このペースだと約70年で人口は現在の倍の160億人にもなってしまい、世界的に様々な資源が不足する危険が大きい。それでも経済成長には全然追いつかない。安定経済成長3%の場合でも50年で経済規模は4.5倍になってしまう。

そもそも資本主義になる以前は、ホモサピエンスは5万年かけて漸く現在の約8億人程度の人口に達したが、その後、資本主義の500年で80億人に至ったのだ。それでも経済成長率はそれより遥に高い。

デヴィッド・ハーヴェイ『資本の謎』では、資本主義が成長を続けるためにはその規模が巨大になり過ぎたことを示すため、アンガス・マディソンの計算による財とサービスの世界総生産高の歴史的推移を示している(P44~45)。これに人口増加の推移を対比して表にしてみる。

1820年 1913年 1950年 1973年 2003年 2009年
6940億$ 8兆2000億 5兆3000億$ 16兆$ 41兆$ 56兆2000$
1804年 1927年 1974年 2012年
10億人 20億人 40億人 70億人

世界の総生産物は、1820年を「1」とするお、1913年には約3倍、1950年には約7.5倍、1973年には約23倍、2009年には約80倍にも増加している。

人類は資本主義時代になって以来、人口を爆発的に増加させて、人口は1804年から1927年で2倍、1974年で4倍、2012年で7倍となっている。しかし、上記生産物の増加はそれと比しても桁違いなのだ。

因みに、マルクス資本論第3巻第3篇では、利潤率の傾向的低下の法則として、資本の有期的構成の高度化(cのvに対する比率の増加)を長期的な持続的傾向としている(その場合、その分、労働者数は節約される)。しかし、ピケティが『21世紀の資本』で明らかにしたように、現実には必ずしもそうなっていない。資本の有期的構成の高度化が予想に反して進んでいないことは、サービス業の発展等にもよるであろうが、生産力の発展による生産手段の低廉化が著しく進んでいることにもよるであろう。

2-③置塩信雄「均衡蓄積軌道」と宇野弘蔵「恐慌論」

 置塩信雄は、短期的には景気循環において失業者の発生と吸引の過程があるが、長期的な再生産の「均衡蓄積軌道」では、雇用の成長率が労働人口の成長率と等しくならなければならないとしたという。

 これに対して、宇野弘蔵は、資本主義の運動が典型的な産業資本主義段階で周期的な恐慌が発生したのは何故かと問題を立て、それが資本論の未完部分をなすとし、資本が生産できない労働力の商品化の問題に焦点を当てた。(宇野自身はそこから賃金の上昇が恐慌の原因とするがそれは首肯できない)

 総合すると、原理論的には、資本主義は景気循環における恐慌という暴力的な調整を経て、再生産の均衡蓄積軌道に戻ると考えればよいのではないか。

3、日本経済が直面する三つの道について

 これからの日本は労働人口の減少という世界史的に未体験のゾーンに入るが、上記に見たように、資本主義はこれまでも出産による人口増加が経済成長に追いついたことなどなく、このテーマは普遍的なテーマであるともいえる。

 松尾先生は、解決策として、①利潤率を低下させて賃金の増加と公共福祉への支出を拡大させること、②生産性を高めること、③貯蓄率を減らして非生産的の資本家の支出を増加させることの三つを挙げ、①が一番良いが資本家の抵抗を受けるとする。付言すれば、仮に一国で資本に負荷をかけるとその国の競争力を低下させ、資本の逃避や、果てはベネズエラやジンバブエのように経済制裁も受けるであろう。

 我々は、国際的な連帯を求めつつ、資本主義に代る社会への過渡的要求として、賃金アップと公共の福祉への支出拡大、大衆課税に反対して富裕層への課税の強化、先進国におけると脱成長などを要求としていくべきと考える。

2019年5月