ラトゥーシュはフランスの学者で「ポスト開発」学派という思想潮流に属し、資本主義の開発(発展)が「あらゆる害悪の源泉」であると主張する。とりわけ、「北」の開発が「南」の自立的な社会を解体し、富と貧困の一層の格差をつくりだした、と弾劾する。そして、資本主義の核心的な精神である「成長への執着」を放棄することに成功すれば、資本主義を廃絶しなくても、社会は徐々に資本主義的なものでなくなっていく、と提起する。
このような少し極端な、以前から存在する見解が、今日、「脱成長論」として、大きな注目を浴びている。それは、なぜか。
地球環境の危機とグローバリゼーションの破綻
「これまで長い間無人の砂漠に説教を繰り返してきた」ようなラトゥーシュたちの主張が、俄然注目を集めたのは、環境の危機とグローバリゼーションの破綻による、という。さらに最近の中国やインドなど新興国の成長があるであろう。
著書によると、持続可能な文明様式であるための「エコロジカル・フットプリント」(生活様式が自然環境に与える負荷を地表面積で示す指標)は1人当たり1.4ヘクタールでなければならないが、現在の人類は1.8ヘクタール、すでに負荷の限界を超えている。とりわけ、米国市民は1人当たり9.6ヘクタール、ヨーロッパは4.5ヘクタールとなっており、もし、全人類が米国と同じ生産様式を採用すれば地球6個が必要であり、ヨーロッパの水準なら地球3個が必要ということになる。このような過剰が顕在化しないのは、第1に、10万年の光合成を必要とするような化石燃料を急速に消費しているというように地球の過去の財産を消費しているからである。また、第2に、北側の畜産が必要とする大豆粕飼料1トンの生産のために南側の森林1ヘクタールを伐採するというような、南側の自然環境の負荷によっているからである。
今や資本主義文明は、宣伝広告費が軍事費につぐ世界第2位の予算額になり、生産=消費の拡大はハイパー化し、資源の供給源は同時にゴミ箱となり、例えば毎年1500億台のパソコンが第三世界のゴミ処理場に輸送されて有害金属を垂れ流している。人々は「経済成長中毒」となって、フランス人はそれを癒すために年間4000万本の抗うつ剤を消費する。脱地域化が進み、食肉の飼料のために地球の全耕作可能地の33%が使用され、スコットランドのアカエビは殻をむくだけのためにタイを往復輸送する、そんな様相に陥っているというのである。
ところで、GNPの成長率を3.5%(20世紀後半のフランス平均)とするとGNPは100年後に31倍になり、中国並みの10%ならば、736倍になる。したがって、地球環境の維持と量的経済成長が両立しないことは明白となる。
ここからラトゥーシュは、価値と社会の再評価・再構築・再分配・「縮減」(環境負荷と生産の)・再ローカリゼーション・リサイクルなど、「脱成長社会」への移行の政策を提起するのだ。
実際の成長の抑制には階級闘争が必要
ラトゥーシュは、マルクスが資本主義を、生産力の発展と私的所有に基づく生産関係の矛盾として捉えたことについて、「生産力の発展自身は肯定している」と批判している。やや後知恵的な批判ではあるが、21世紀の今日、生産力の物的量的発展自身は自然環境との関係で限界に達していることを認めなければならないであろう。
ラトゥーシュが、エコロジーを消費の問題に限定せず、消費=生産関係の問題として、資本主義の生産関係それ自身を否定している点や、資本主義が生み出した想念の克服を提起する点も重要と思う。
しかし、マルクスが『資本論』「相対的剰余価値の生産」の章で明らかにしたように、最大限の利潤の搾取と蓄積=拡大再生産は、「競争の強制法則」として個別資本の思惑を超えた資本総体の鉄に意思であることは事実である。それは私たち労働者が日々、目の当たりにし、直面している現実でもある。資本家を説得してみてもどうにもなるようなものではない。したがって、実際に資本の蓄積と拡大再生産を抑制するには階級闘争・大衆闘争による介入が不可欠だ。闘争の力で資本の拡大再生産のための原資を労働者民衆の自立的な生活のための原資に再分配させることが核心的なテーマである。労働時間の短縮というテーマも、時間当たりの賃金アップがその前提にならなければならない。これらの視点がラトゥーシュの著書には欠落しているように思える。
世界革命か、ローカリゼーション(地域主義)か
ラトゥーシュが「脱成長」戦略として、再ローカリゼーション(地域主義)を説いていることは注目に値する。
巨大で多様な地球において、資本主義国家権力を連鎖的に打倒していくという20世紀の世界革命戦略は現実的でないことが明らかになった。
他方、現在、グローバリゼーションが破綻し、アメリカ「帝国」による世界支配はいたるところで後退を余儀なくされている。ラトゥーシュが「開発の遭難者たち」と呼んだ開発政策から排除された都市スラムや農村の領域のように、経済成長社会とは別の生活圏が形成されつつある。もちろん、「開発の遭難者たち」は到底美化されるような状態にはなく、彼女・彼ら自身は豊かになることを望んでいるのであるが、地域で自立的自足的な関係を形成しつつ、資本主義に対抗する運動を育てていくという戦略は有効なように思われる。「グローバルに考え、ローカルに行動する」というエコロジストの主張は一理あるといえる。
・・・・2011年1月