1-2.研究論文:「唯一前衛党」神話とボルシェビキ

論文『スターリン主義はいかにして発生したか』では、ボルシェビキの民族政策と党の官僚主義の問題に光をあてて考察してみた。ここでは、その補足として、ボルシェビキの一党独裁体制の形成、および、国内建設の問題について若干考えてみたい。
左翼党派にあっては、「唯一前衛党」論ー自らの党のみが正しいという論理は広範にまかり通っていたが、実際にレーニンのボルシェビキが他党派を排除して一党支配体制をとったのは、スターリン主義発生に先立つ内戦期のごく短い時期のみだった。それ以前は『共産党宣言』以来、社会主義政党は他党派の存在を、故あるものとして容認していた。

ロシア社会民主党は、2回大会後のボルシェビキとメンシェビキの分裂以来、分岐と統一の様々な論争を経てきたが、第一次世界大戦での第二インターの崩壊、そこにおけるメンシェビキとSRの祖国防衛派への転落を契機に決裂は決定的なものになった。そして、17年、ボルシェビキは4月テーゼで綱領転換、メンシェビキやメジライオンツィの多くの労働者を吸収し、新生ボルシェビキとしてソビエト多数派になっていった。

ボルシェビキが、単独の政権党になっていくプロセスには、第一次世界大戦での第二インターの崩壊、そこにおけるメンシェビキとSRの祖国防衛派への転落を前史とし、革命後のロシア内戦(17、18年)における左翼SRとの決裂―ソビエト政権からの離脱という過程があった。左翼SRとの決裂は、ブレストーリトウスク条約に左翼SRが革命戦争継続―ウクライナの反独蜂起支持を掲げて反対したこと、及び、ボルシェビキの穀物徴発令―「食糧独裁」に反対したことを契機としていた。この論点については後世から判断して必ずしもボルシェビキが一方的に正しいとは言えないものだった。

ブレスト条約についてはボルシェビキ内部でさえ意見が対立した問題であり、条約締結がウクライナの民族解放闘争を切り捨てることになった面は事実としてあった。

また、18年の穀物徴発令は、農民の余剰農産物を強制的に都市へ供出させるものだったが、それは農民的個人経営をそのままに、市場だけ強制的に廃止せんとする非常に無理のある政策だった。したがって、それは基本的に貫徹せず、余剰農産物の多くは「闇屋」が売買することとなった。しかし、より以上に重大なことは、このような農民に対する暴力的な措置が、ボルシェビキの農民的基盤の弱さともあいまって農民の反乱と徴発隊の弾圧という悪循環を生み出し、むしろ国内戦を激化させるものとなってしまったことである。

また、都市における経済建設もブルジョアジーのサポタージュとボルシェビキの経営能力の未熟さから混乱し、食糧独裁の失敗とあいまってプロレタリアートは食糧にも事欠き、金属労働者のストライキなどが発生する。因みに、ペトログラードでの労働者のストライキは、19年、21年と続き、クロンシュタットの水兵反乱の序曲となっていく。

ボルシェビキ(レーニン、トロツキーら)はチェーカーを使って、対反革命戦争の一環として、反抗する農民や労働者を「赤色テロル」的に厳しく弾圧した。そして、このような大衆の反抗を代弁した左翼SRやメンシェビキ国際主義派を大量に逮捕、あるいは処刑した。左翼SRの中からもウリツキーらレーニンに対してテロルで反撃するものもあり、これにボルシェビキは激しく報復した。この過程でボルシェビキの一党独裁は強化され、ソビエト民主主義は形骸化していったようだ。

当時のボルシェビキの政策は、世界革命の遅延、農民人口が圧倒的なロシアという条件の下で、プロレタリア権力が生き延びていくギリギリの試行錯誤であり、多くの誤りを含んでいたと思われる。その誤りは、すでに官僚主義的圧政という逆転現象すら孕んでいたといってもいい。それはウクライナや中央アジアでの排外主義的な誤謬ともかさなっていたと思われる。
しかし、それを乗り越えようという営為の中にまだ、革命は圧倒的に息づいていたのではないか。だからこそ、ツアーリズムへの逆転を望まない多くの大衆が、その誤りにもかかわらずボルシェビキに結集し、革命権力を防衛したのだと思う。

一党独裁の問題について考えるとと、やはり、戦争と内戦という問題と切り離せない。物事が一端、軍事的性格をおびると、事態は非和解的に発展せざるをえない。敵の存在が自己の生存を脅かし、自己が生存するためには敵を滅ぼさねばならないという力学が働く。このような関係性の中で革命戦争の障害になる他党派の存在は、個々の政策的正しさがあっても否定されてしまったのであろう。
逆に言えば、ボルシェビキにかわる革命の全体性がなかったにせよ、「労農一体化」や「ソビエト民主主義」といった左翼SRやメンシェビキ国際主義派の主張には、農民や労働者のボルシェビキに対する批判を表現していた面は明白にあったと思われる。そして、大衆の意志を力あるものとして政治的に表現するためには組識―党派は不可欠の存在であった。

プロレタリア革命が暴力革命という属性を本質的にもつ以上、ロシア内戦の過程は、避けてとおれない面があった(部分的には政策の失敗が不毛な内戦を惹起したのだとしても)。しかし、そこにはいくつもの大きな誤りが含まれていたことも明白である。したがって、それは革命の進展―世界革命の前進の中で是正されなければならなかった。21年のNEPで食糧独裁が訂正され、22、3年「レーニン最後の闘争」で民族抑圧的政策と党の官僚主義が改められようとしたように、度を越した他党派への弾圧と一党独裁、ソビエト民主主義の形骸化も是正されなければならないものとしてあった。
しかし、一党独裁とソビエト民主主義の形骸化は、そのようなボルシェビキの政策の大衆的是正手段そのものを奪うものとして、きわめて深刻な問題であったといえる。しかし、当時のレーニンは党外からくるブルジョア的反革命に身構え、「わが革命党」の官僚的変質についての認識は甘かったと言える。スターリンはそこをついて党を変質・固定化し、「無謬の唯一前衛党」神話を作りあげていった。

参考資料―宮地健一サイトから、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』、P・アヴリッチ『1921クロンシュタット』、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、スタインベルグ『左翼社会革命党』

2003年6月